声楽・合唱と車好きのブログ

趣味だからこそ極めたい。そんなアマチュア声楽家の日記兼雑記です。レッスンの申込みも受付中です。

趣味の声楽・合唱に関すること、車に関することについて、日記・雑記形式で書いています。
結構毒舌になることがあるので、その点ご容赦くださいませ。

声を視る

プロ/アマという括りを設けなくとも、声楽家にとって一流と二流をわけるラインというものが、確かにあるように思えます。


私は自分が一流であるだなんて大層なことを申し上げるつもりは毛頭ありませんが、そのレベルに達するために意識しておきたいとは思っています。


それが何か、というと、「声を視る」という概念です。これは、誰かが言ったとか、どこかに書いてあるとかいうものではなくて、私が思っていることです。


ベルカントの発声は純然たるテクニックですが、様々な専門用語を駆使して説明したところで、その本質に迫れるとは思えません。指導する先生が真に発声を理解し体現できる方だとした場合、学習者である生徒との間には非常に大きな理解度の差があります。発声という極めて抽象的な事象を理解する、だけでも難しいですが、それを学習者に説明することはもっと難しいです。


私がY先生の薫陶を受け、同時に数名の生徒を指導するようになり、このことはよく考えるようになりました。生徒に理解してもらおうと言葉を選んで説明することを繰り返していると、不思議とY先生のレッスンを受けるときにもよくわかるようになっていきましたね、これはずっと受け身の生徒でいたら達することができなかったと思います。


さて、声を視る、ことについて。これは私だけじゃないと思うんですけど、発声への理解が進むと、歌っているときに自分の声が視えるようになります。声というか、正確には息かな。


息が自分の身体のどの部分を通ってどう抜けていくかを、視覚的に捉えることができるんです。あとは、ずっと同じところで息が通って行くように観察しているだけ、という感じ。もちろん、顔についている2つの目で見ているのではなくて、どこか別の意識、高次元の存在が自分の身体を視ているような感覚です。


で、例えば様々な指揮者や先生が指導をする際に、私なら、「ああ、今はここのルートの部分の説明をしてるんだな」と理解ができるので、その部分を抽出して修正することができるのです。これが、全体像を把握できていない場合、”その指導が全て”となりやすく、路頭に迷いやすいんです。そして、そういう人って、刹那的に指導が合う/合わないで色々先生を渡り歩いたりしちゃうんだと思います。


このことについて書くと長くなりそうです。とりあえず、歌っているときに声を視覚的に捉えられるようになると、また違う次元で演奏ができるようになると思います。

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